| −1998/04/29 逃亡− | (4/9) |
今日はまず明の時代に作られた「漢魏歴史博物館」と、そこに立っている「文峰塔」へ行った。文峰塔の最上階へ向かい 許昌の町並みとその中の仏像をを見学。文峰塔はほんの少し傾いていた。 この中にある仏像にもやはり関羽が存在していた。 博物館では許昌で発掘された石碑や壺などを見る。曹操に関係する物品もあった。廊下の壁には三国志の一場面の絵が描かれていた。 博物館には古跡の大まかな場所の地図もあり、 そこには「賈[言羽]」の墓の場所が記されていた。 是非行きたかったが、時間的に無理だった。くやしい!! それらを堪能した後、魏の文帝が献帝から帝位を禅譲された受禅台(以下文帝廟) と、その近くの張飛廟に向かうつもりで、バスを探しに出た。 するとその辺りに行くバスは無いらしく、 バイクの後ろに人が4人くらい乗れるように改造したオート三輪タクシー (以下三タク)の運ちゃんがこの後どうなることもわからずに、 にやにやと勧誘してきた。 文帝廟・張飛廟を知っていると言うので、 その三タクで文帝廟・張飛廟へ行くことにする。 運ちゃんはなぜか郵便局で一時停止して中へ入っていく。 運ちゃんは張飛廟の場所を実は知らないから、場所を聞きに入ったのだと思うのだが運ちゃんは 「ここの連中に声をかけておきたかった」 とバレバレの言い訳を言っていた。 さがしても張飛廟は見つからないし、道は行き止まりになる。 どうやら道を間違ったらしい。 引き返し別の村へ向かう。 しばらく三タクで走り回りそれらしい建物を発見したのだが、 中に入ると目的とは違う廟であることに気づく。 そこは「中岳於之齋」という明か清の時代に作られた建物であった。 ここには、仏教関係と思われるの像が置いてあった。関羽はここでも神として祀られていた。 関平・周倉の像も隣にあった。 そこの住民に文帝廟・張飛廟の場所を聞き出し、文帝廟に向かう。 やっとのことで無事文帝廟に着いたとき、 「初めて来たぜ!」 と三タクの運ちゃんは言ってたらしい。 おいおい、知っていたんじゃないのかい! この文帝廟も殺風景な所で周りは畑で数キロ四方民家も何も無い。 そのうちここも農民に畑にされて無くなってしまうかもしれない。 運ちゃんの疲労が限界に達する頃、ようやく張飛廟を発見。 少し感動!そこには、劉備・関羽・張飛が馬をつないだという木があった。が、1800年くらい経っているのにえらくか細い木だった! 明らかに偽物だぜ! ただ場所は本当かもしれない。石碑もあった。張飛廟の中に入ると張飛像、その両脇にはおそらく二人の息子、張包・張紹の像があった。 劉備・関羽・張飛・諸葛亮と思われる像も存在したのだが、この像は判別がつかないほど風化していた。 この張飛廟は城が風化した感じでぽつんと畑の中に存在するのだが、 あと数年もすれば無くなる可能性を秘めている。
劉備・関羽・張飛が馬をつないだという木。後ろは張飛廟。
劉備・関羽・張飛が馬をつないだという木の説明 張飛廟の門
判別がつかないほど風化していた像 その後「許昌古城跡」へ向かったが、石碑とわずかに城壁の跡が残っているだけであった。 次にそこから見える「毓秀台」へ向かった。 ここは半年に一回皇帝が星を見るために作られた台である。 ここも張飛廟と同じく小山の上にあり、 360度見渡せる素晴らしく眺めの良い場所であった。 最初上がるのに苦労したが、上ってみると別の場所にきちんと階段があり、 そこから難なく上ることができるようであった。 廟の中には献帝らしき像があり、庭には井戸があった。 階段を降りると毓秀台という石碑があったので、どうやら最初上ってくる場所を間違えたらしい。
許昌古城跡 毓秀台 我々はまだ体力が残っていたので、献帝の墓に行こうとしたのであるが 運ちゃんが根をあげたので仕方なく帰ることにする。 運ちゃんの話によると、寒さで手は痺れるわ、長い運転で股関節は痛くなるわ、 そして昼飯も食って無かったそうで運ちゃんにとっては最悪の一日であったと思う。 我々は運ちゃんに200元を払い充実したタクシーツアーを終了する。 (本当は180元だったのだが不憫だったのでお釣りは貰わなかった) 大変な長旅である。この三タクの運ちゃんには昨日の運ちゃん以上にお世話になった。 この中国の旅でつくづく思うのは俺達にとっては貸し切りで堪能できてよかったのだが、 もっと昔の遺跡を大切に扱おうぜということだ! 夜は鍋料理を堪能したが、ここでも麺が食べきれないくらい登場。 追伸 今日、おそらく張飛廟の所でサングラスを落としてしまった!悔しい! |
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